第9章 認知の意味するもの

制御と自由

スキナーは、オペラント(道具的)条件付けの概念を確立させました。簡単にオペラント条件付けを説明しますと、ある行動の結果が好ましいものですと、その行動の頻度は増します。ある行動の結果が嫌なものですと、その行動の頻度は減ります。この結果による行動の強化(または弱化)によって、行動を充分に制御できるというのです。しかし、U・ナイサーは、成功例はいくらでもあるとしても、だからといって我々の行動を必ず制御できると言うわけではないと訴えています。行動制御が及ぶ範囲には限界があるのです。

「どこを見るか、何を行なうかの選択」

>知覚の自由

子どもから大人へ発達していくに従って、拘束された知覚活動から自由な知覚活動へと変化していくと言う考察は当りません。なぜなら子どもは、かなり勝手気ままに情報を抽出したり、受容しているからです。では、成長に従ってどのような知覚の発達がみられるかと言いますと、熟練した知覚者は、情報抽出(受容)の法則を獲得していくのです。この法則の獲得によって、効率良く情報抽出(受容)をすることが可能となります。すると、未熟な知覚者よりも、より捉えがたい特徴を環境内の情報から抽出(受容)できるようになります。

制御された自由

上記のように、法則に従って効率良く情報を抽出(受容)していくことは、ある程度、その法則の制御を受けるでしょう。チェスであったり、その他のゲームであっても、ルールが存在します。そのルールに則った知覚の法則が獲得されることによって、素早い判断や、より捉えにくい情報の抽出(受容)が可能になるのです。
逆に、子どもの勝って気ままな、自由な知覚というのは、無限の環境へのアプローチを可能とするかもしれませんが、それは法則の無い反射的な興味・関心などから来る情報抽出(受容)ですから、表面的な情報抽出(受容)に過ぎないのでしょう。

「予測と制御の限界」

予測と制御の可能性

ある人の行動を予測する、あるいは制御するには、その人が環境から獲得した情報、それ以上の情報を獲得しておかなければならないのです。その獲得すべき情報とは、心理学の情報ではなく、その環境の情報なのです。
今まで見てきたように、図式を持つことによって、知覚する準備状態を整え、そこから作り出した心像によって、予期してきました。ここから、ある人のこれから行なおうという活動を、予測や制御をしようとするのでしたら、最低限度、その人の持つ図式以上に、高度に修正された図式を持っている必要があるということがわかるでしょう。

しかし、ある人の行動を完全に予測し制御することは困難であるが、ある程度予測し制御する事の可能性が示されています。それは、収容所や刑務所のような厳重に統制された環境で、その中の人の行動の選択肢を制限しておくことによって、行動の予測と制御が可能になるのです。ですが、その監禁された状態で生ずるであろう特有な行動までも予測するといったことはできないのです。
以上のことから、予測と制御は、それを行いたい人が、予測し制御される人の状態をよく知っていることが必要であるとわかります。ですから、環境からより多くの情報を獲得でき、子どもの事をよく知っている親は、自らの子どもの行動を予測し制御できるのです。ただし、親もよく知らない環境に子どもとともに入った場合、その制御は弱まります。

想像・抽象・発話の制御

想像・抽象・発話は、認知過程から分離されたもので、行動よりも自由でありますので、その予測や制御は、行動を予測し制御することよりも、いっそう困難であることがわかるのでしょう。

現実として、行動の操作が心理学上の理論などを借りずに行なわれている例があります。それは嘘をつくことです。行動は情報によって影響を受けます。その情報を操作する事によって、行動を一部操作する事になるのです。その嘘による行動操作から身を守る唯一の方法は、嘘をつく者が制御できない情報源を利用できるようにしておくことなのです。すなわち、情報源の多様化、選択できる情報源の確保が必要なのです。

「社会的予期」

環境と個人

Aさんの予測を行なうには、Aさんのいる環境からの情報を豊富にするだけでなく、Aさんの情報も豊富にしなければなりませんb。なぜなら、Aさんは図式によって、環境の情報を知覚しています。よって、Aさんの持つ図式を知らなければ、Aさんが環境からどのような知覚情報を獲得して、行動しているかという予測がつかないからです。当然の事ながら、それは非常に困難です。

社会的・文化的規範での予測

前回より、人の予測や制御の可能性について、見てきましたが、それは非常に困難であることがわかりました。しかし、現実には、ある程度他者の予測ができます。例えば、「A:電話のベルが鳴る ⇒ B:受話器をあげる」や、「A:鍵を取り出す ⇒ B:鍵穴に差し込む」というように、Aを見て、Bを予測できます。これは、我々には、社会的・文化的規範に従って生きているという認識があるからです。
「A:電話のベルが鳴る」…について、ベルの音が異なっても、ベルであることが認識できればよいですし、「B:受話器をあげる」…について、どちらの手で受話器をあげようともよいのです。
もちろん、今まで経験のしたことがないベル音を聞いた場合は、電話が鳴っているかどうかわかりませんし、そうなると、受話器をあげるという行動も予測できません。また、今までの経験で、状況によっては「受話器をあげないで電話を放置しておくことがある」ということを知っていると、「受話器をあげる」と、無差別に予測する事はないでしょう。ですが、経験的に、総じて「A:電話のベルが鳴る ⇒ B:受話器をあげる」という予測ができるのです。

共通の図式

我々は、生まれた時から(一卵性双生児を除いて)誰とも同じではない。そして、更に個人個人が独自の経験を積むことによって、独自の図式、情報獲得方法を持ちます。ですが、大部分の動物にとって、「その情報がなければほとんど生存が難しい」というような情報を抽出する図式を我々は共通して持っていることは当然なのです。その図式とは、『物体は表面を持ち、普通は不透明で、触れると抵抗を示し、堅く、多くの場合移動でき、様々な色をしている。』という物理的な特性を明確にする情報を受け入れる図式です。この共通の図式に、生まれ育った家族・仲間・文化特有の意味情報を付け加えた独自の図式を持つことになるのです。

「情動と相貌的知覚」

感情を知覚すること

我々は、他者の感情を過去の経験(図式)に照らし合わせて、その感情の意味を推測しているわけではありませんし、共感能力によって、他者の感情を自分自身の中にも芽生えさせて、その感情を知覚しているわけではありません。前者は、いちいち過去の経験を想起するには物理的に時間がかかり過ぎますし、後者は、音声知覚の時にも勉強しましたように、運動説(同じ運動を行なう事によって他者を知覚できるという仮説)と同様の仮説で、他者を知覚するのに模倣を伴わなければならない有効な理由は何もありません。

感情・情動とは予期である

相貌的知覚も、他の種類の知覚と同じ様に考えればよいのです。相貌的知覚は、その情報獲得の準備を必要としますし、さらに多くの情報を獲得するよう探索することを方向付けます。そして、普通の知覚同様、現実に存在する何かを特定します。相貌的近くの場合、その何かとは感情や情動です。そして、この感情や情動は、その状態そのもの、あるいは、少なくとも部分的には、「予期」なのです。⇒ 例えば、「怒り」は予期された「攻撃」の内的な相です。イメージが知覚循環の内的な相であるのと同じ意味であり、ある意味それは「意図」なのです。イメージが知覚循環から分離され得るものであるのと全く同様に、実際に攻撃が起こるであろうような状況からは分離され得るのです。

サインとしての感情・情動

動物界のあらゆる種において、予期的な信号活動とそれに対する反応性を見出しています。闘争の用意がある場合には、その型の定まった姿勢をとり、それに対して、服従をするつもりであれば、別の型を取ります。人間の示す感情や情動は、これと同じ性質なのです。

「自己同一性(アイデンティティ)とコミュニケーション」

自分とは何かを知るには…

身体的自己は、生まれた時から知覚できるものですが、人格的自己は、生まれた時から知覚できるようなものではありません。他者を知り、他者の感情や情動を知り、その家族や地域の文化を知り、図式に修正を加え、発達させていき、その中で自己を知っていくのです。生きていく中で、環境から多くの重要な情報を獲得していきますが、自分で直接観察が不可能な、書物や他者の言葉による情報も重要です。しかし、それらの情報は完全な情報ではなく、思い違いや誤解、偽りも含んでいます。気をつけましょう。

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